さて、
私は身近な人を高校生活中に多く「なくし」ました。
私にとって身近だっただけであって相手の心にいたかどうかは分かりません・・だけど、私はその人の「死」を受け入れられなかったんです。
今までの間、ずっと。

ですが、その人が今居ないのは事実です。
受け入れざるを得ません。
今日は「なぜ」受け入れられなかったのか、を少し話したいと思います。

短い間お付き合いください。

その人と話す機会は皆無でした。
2、3回話しただけだと思います。しかし、私はその人に「伝えたいこと」
がありました。たくさん、いっぱい。
少しずつ書き溜めて、友達と話したりして、その人に渡そうと思っていたんです。
私の区切りになるときに。・・叶わなかったけれど

私がその人の死を聞いたとき、
私の頭の中ではその書き溜めていた内容が頭を回りました。

そして

「伝えられなかった」
「いえなかった」
「・・・・・・悔しい」

同時に3つの感情が渦巻いて、どうにも止まらなくなったんです。
涙を流したいだけ流して、声にならない言葉を発して、

周りに笑われましたね。
「何でそんなで泣くんだ。そんな、関係ないじゃないか」
「うわ・・泣いてるよ。」

そうかもしれません
その人の死は私には何にも関係ないのかも・・
でも、私は悔しかったんです、それにずるいと思った。

・・・・・・責任果たさないまま、逝くの?

「だめ」だなぁ、私。

つまり、私にとって「し」によって残る未練は残された人に残る。
「何であの時、ああ言えなかったんだろ」
「こうできなかったの?」
死は人々にそんなものをもたらす。
亡くなった人は「無」だと思うんです。
キリスト教に6年触れてきても、もしも、そんな風にあったら素敵だけど。

私は別にキリスト教を批判しているわけでも、
「し」んで人が哀しまないと言っているわけでもありません。

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